Nojikas – バレエ Ballet Mechanic EP



1.バレエ
2.喪失はじめまして
3.傴蟲
4.零度のトレモロ
5.Cold Circle Connections
6.ソの余白
7.反響I

 今回はある曲(track-4)の一部分ではあるがエモオタク(@ Paul_Opinion)さんに歌ってもらった。けれども、その曲以外はまるで死にかけている感じであり、全くなにがしたいのかわからないという有様である。エセマスロックを踏襲しつつも、ふたを開けてみればジャンルレスエクスペリメンタル激情吐露コアポップが展開されるのは、斯道においてはともすればパイオニアなのではないのかという迷走ぶりであった。直したいところもいくつかあるが、狂気を患ったペソコンが許してくれないので不完全燃焼というところである。また、曲の捻出能力もすでに限界を感じて来ているので、今後はなにか他のものに逃避しようと思う。



誰かに依頼をお願いするのは初めてなものであるから、連絡から交渉まで多くの点で反省すべきところがあった。今見返しても背筋がひやりとするメッセージの文面は「歌詞はないけどとりあえず自由に叫んでくれ」「最初は狂気的に、その次はフルパワーで」などともすればふざけているのではないかというものであり、これほどわけの分からない指示もないだろうと自分で書いておきながら思わず感じてしまった。声を入れるという思いつきは最初から念頭にあったものの、漠然としたイメージしか膨らませることができなかったので、エモオタクさんに全幅的に解釈を任せたアウトプットから、また新たに配置や展開を構築していく形となった。エモオタクさんが歌った通りではないかもしれないが、色々と試行してみた結果今の形に落ち着いた。激情のバイオレンスゾーンだけは格好良く仕上がったと思うのでのでこれもエモオタクさんの歌があってこそである。ありがたい。とはいえ当初目指していたよりもオケがにあまりにもペラペラだったため音圧を上げなければならなかったのだが、そのやり方を全く知らなかったのでMS処理や様々なVSTを試してみたのだが、最終的にはリミッターで「そういう感じはまあ分からなくもないかな」ぐらいまで無理やり音圧を上げた。せっかく歌ってもらったのにこれではオリジナルを蔑ろにしているのではないか、と思われても仕方ないのだがそんな気は毛頭もない。むしろ感謝しかない。しかし、制作途中でふと感じたのが、エモオタクさん本人が作る楽曲があまりにもエモオタクさんの世界を成立させてしまっているので、やはり激情ハードコアの王道的なスタイルそのものだけではいちファンとしてはいささか面白みが欠けるとも思った。音楽自体にもっと狂気的でグロテスク的で残酷的なものがあり、なおかつそれを直接的に表現しない感じでそれらが際どく相乗した空気が独特の緊張感として昇華される音楽を生み出すことができれば面白いだろう、と頭では思っているがなかなか音像化にはまだまだほど遠い。



●錯乱の顛末
去年の終わり頃からずっと真っ暗なトンネルをくぐっているようなうだつの上がらない感覚が続いていたが、実現はしないだろうと想いながら生まれたバンド実践用の実験曲が、思いのほかこの暗澹たるトンネルを抜ける隘路/活路になるのではないかと感じ、この契機に乗って勢いあまって2ヶ月ほどで作成したが、 曲の捻出は精神と現実と電脳のなかで起こる幾多の障碍の輻奏によって迷走を極めた。


ことのはじめはパソコンからブルースクリーンの強大な意志が顕著に現われ始めたことであった。ほどなくして愛用のNexusがCubaseのvstインストゥルメントリストからにわかに消失した。それから曲の輪郭を歪み尽くすほどの吐瀉ノイズが絶えず再生ボタンを巣食い始めた。それはトラックを無効化やインストゥルメントをフリーズさえ無効力であるほどのノイズに成長することもあった。曲自体はグラインドコア並みの曲の短さでありながら、ガチガチに凍結武装をして作業をしなければならなかった。聞こえない音を想像しながら透明なパズルを組み立てていくようなやりづらさであった。しかしその狭窄的なやりづらさは肉体面からも出ていた。技術とアイデアとアウトプットの湧出の限界は痛切に表れ始めていたのである。 気づけば凝りもせず汎用性のない変則チューニングの思考停止的なコードの螺旋を巡回し、あまつさえドラムはほとんどを収録プリセットから乱用する始末であった。 途中で何を目指しているのか全くわからなくなり、曲の捻出はただの作業に変わり、ついにはそもそも曲自体が非常につまらなく感じ、「もとよりなにが面白くてこんなことやってんだろう」と思い始めた頃にはやはりこの忌まわしき精神世界から一度1,2週間ほど遁世の措置をなさねばならなかった。
一時の衝動だけでの捻出ではどうにも盲目になるところがあるから一度俯瞰して客観的に観察してみなければならないというのは創作的行為における鉄則ではあるが、それはこのような気持ち良くない自慰にも似た卑しい精神の対峙であっても例外ではなかった。しかしその俯瞰がさらなるゲシュタルト崩壊を引き起こすことは全く考えようがなかった。
こうして曲の捻出は半信半疑のままに終わり、生み出された捻出物群はやっとのところでアルバムの形を保っているとはいえ、それぞれは全く散文的なものであり、加えて「もしかしたら全く良くないのではないか?」という瓦解の経験は未だにには払拭しがたいものでった。とはいえ、少しばかりの遁世を経たおかげで自信を確信している曲もなくはない。それはインストものしか選択肢がなかった自分にとって新たな可能性をしたたかに感じられるものであった。


the_end

●夢の選択
 小さい頃は早く大人になりたいなーと思っていたが、最近ではもう一度過去をやり直したいと思うあまりに、山篭りや断食、瞑想や擬死体験を試みるなど、タイムリープの能力を体得すべく日々身体の探究に腐心したり、時空超越マシンの開発の下準備ために第八チャクラ解放塾なるものに通い始めるありさまであった。というのは、まことに奇妙なことに、弦を弾いたり、鍵盤を叩いたり、ペンを滑らしたりするという行為が、自らの内奥にしまいこんだクソどうでもいいような有象無象の思い出メモリーを湧出させる引き金となっていたからである。思い出される出来事のはすべては恥辱や後悔を再び生起させるものばかりで、楽しいことは何ひとつ浮かんではくれず、しまいにはコンプレックスをそのまま詰め込んだ夢が展開される日々が続いた。とはいえ、それは夢であるからまだ良いのであった。それに併せて巻き送る現実の出来事というのは、まったく悪夢よりもつまらない。
 もう今年で二十歳になる。二十歳までに実現させたいとはかっていた様々な思案や計画は、およそほとんど潰えてしまった。残りのわずかな種も、その芽が出るまでには時間がかかるどころか、その存在さえ揺らぎかねない始末である。


●放課後の動態
 まるでドラマの筋書きのように、あたかもそうなるべく仕組まれた軌跡を辿っているような人間も存在する一方で、自分はそのようなお伽噺とはかすりもしない小径を匍匐しながら歩んできたように思える。むしろ誰かが自分を貶めるために、一切が巧妙にすれ違うような話を練り上げているのではないかとさえ感じる。
 それはすでに件の夢のなかに現れる放課後の動態によって明示されていた。放課後における行動の選択数は学校内の階層関係に比例しており、特に放課後の教室の独占は上位層の特権であり、彼らは過剰なフィクションの幻想を自分たちで演ずべく、放課後になればなんというなし集まっては、教室の外壁に甘酸っぱい開かずの不文律を張り巡らせるのだった。
 しかし、いくら俺にその権利がないとはいえ、その見るなの座敷に足を踏み入れなければならないときがあった。それは教室の一隅にエレキギターを置くという、すでに繰り広げられていた男女の青春沙汰よりももっとくだらない理由であった。俺は教室の扉を開けた――ドラマは一時停止した。窓からいかにもあつらえ向きな夕陽が差し込んでいた。俺はギターを置いた。とみに彼らの傍観者となった我がエレキギターは、やがてゲイリームーアさながらに泣きの音色を漂わせた。


●部室みたいな準備室
 そんな日でも創作行為を止めることができぬのは、やはりその行為自体に心の拠り所であると認められる瞬間が存在することや、またその発展として他者の承認における心的な満足や自らのトポスの発見を得られる可能性が少しでもあるからなのだ。とはいえ、その逆を言えば、そこに具体的な形で価値が付けられなければただの自慰であり徒労に過ぎず、そこに惜しみなく充てられる資金や時間はただの浪費に過ぎないだろう。しかしそれで満足であれば良いのである。それは勝手に自己完結されてしまうクリーンなものだからだ。そこに少しでも〈欲〉が生起してしまえば、それはとみに打算的な作業へと変化してしまう。その作業に賭とするものが多くなればなるほど、それは自分一人で昇華できるものではなくなる。むき出しの欲求を貼り付け、誰かを、どうしようもないほどに誰かを希求することになる。

●殯屋
 しかし、全くうまく行かないことに、放たれた分身が誰かのために機能することはそうあるものではないのだ。分けのわからん有象無象の魂や熱量、混沌とした気を込めて創られた分身が、誰かの餌となるわけでも、胸の隙間を埋める粘土となるわけでも、保湿クリームのように塗布されるわけでもなく、まるで肩の上のホコリのようにサッとふるい落とされることや、誰にも掴まれないまま日の目を見ることなく朽ちてゆく姿を見るのことは甚だ辛いことであった。解き放った言霊のそのほとんどが死霊となって今も宙をさまよっていることだろう。彼らが成仏する日はまだまだ遠い。
(チャイム)
さよなら

「たとえばアパルトの中の夜のような…」月録(-2017/01)雑々記

「(…)こうした本能を排除した場合であってねェ、人間はある人間にですよ、――それが直接的な関係を持たなくとも――自らのトポスを見出すことができるんですヨ……」と、テレパシー研究会のある先輩は言った。
私は去年の暮れ頃からなんとなくうだつの上がらぬ自暴自棄的な絶望感を覚え、“神通力を用いて不定愁訴を除去する”というなんとも胡散臭いチラシを学内で偶然に見つけ、このテレパシー研究会を訪れた。ところが、私がいくら神通力治療を懇願したところで、当の施術者は「今日は低血圧でチャクラ練れないんでまた後日お越しください」の一点張りで、代わりに連れてこられたテレパシーカウンセラーというただの衒学的なうるさ型先輩に仕方がなく相談していたのであった。
先の言葉は、至極当たり前なことであるが、全くその通りであった。いくら趣味的なものがあれど、それがすがれるほど強靭でなおかつ透徹した力を持っていなければただの自慰的な作業であり、一つでもそのような感覚を覚えてしまえばあらゆる拠り所は連関的に瓦解して行き、「おりゃどーすりゃいいんだ」と毎日ホゲホゲとしながら、人間というものは本質的に恋愛体質なんだなァと、薄い膜に覆われたような暗澹たる日常に唯一穿つことができる活路というのは、きっとただこれだけなんだよな、ということにたどりついたのであった。


●工事中の駅頭
暦の変化になにかと意味が附される年末年始というのは、なぜだか日々の生活やひいては漠然とした生というものに対して肯定的な感触を覚える。門松は冥土の旅の一里塚という成句があるが、これを積極的な意味で捉えるとすれば、先の得もいえぬ救済感と相まってなかなか良い言葉のようである。とはいえ、それは死があらかじめ決まられている場合に限るのであり、その生物的寿命を平らかに全うするということは、決して簡単なことではないのである。内外の影響がもたらす死はほとんど不定的なものであり、あるいは自らそれを選択することも可能なのである。生は本質的に不自由であるが一方でまた死というものは……。そのようなどん底ともいえる正月を迎え、つとに今年の運勢に憂えたがここをなんとか踏ん張ろうとお年玉を糧に気持ちを持ち直した。


●楽屋
たとえば本当に伝えたいことがあって、それに敷衍した詩的におもえる言葉を羅列したとて、その技術や感性がなければただサムいだけのポエムに終わってしまうのであり、言葉選びの難しさはその程度にあった。しかし、逆転してなんの装飾もないガツガツの心情吐露も好きである。
先日友人の大学サークルのバンドに助っ人として出演した。もうコピーバンドはやりたくないなーと思って音楽系のサークルには入らなかったのだが、大学でのキャンパスライブや、こういったライブのその前後のなんでもない駄弁りを見ると、いささか気持ちが揺らぐが、それ以上にたとえコピーであってもそれすら上手くできないという事実に辟易した。同じ出演者であった唯一のオリジナルバンドは、時間が合わず見ることができなかったのだが、ネット上で曲を視聴すると、先般からいささか感じていた詩の用い方を改めて考えさせられる運びとなった。

[いかにもモテなさそうなダサい格好で]月録 2016/09-11

雑記(見慣れぬバスが向かうのは)
–ずいぶん前から密やかに楽しみにしていたアーティストライブを観に、伴侶もなく一人で学園祭に赴いた。このような学校行事が開催される度にいつもつくづく感じるのは、人と集まって楽しく遊ぶことや、イベント自体を楽しく過ごすという才能が自分には全く欠如しているということである。たとえば、あのように学生服や某キャラクターのコスプレをした売り子たちや、また露天裏でふざけ合ったり、友達のライブを見ながら駄弁り盛り上がっている連中には決してなることのできない高くそして厚い壁があるように感じてしまうのである。
ライブ鑑賞後、いくばくか予想外だったのは、もうすっかり日が短くなっていることと、学校の校舎の並木がすでにクリスマス仕様に扮しているということであった。これがかなりボディーブローとなって、自転車で帰途に就くころには自暴自棄に陥っていた。とはいえ、学園祭のときに話しかけてきた見知らぬ眼鏡の奴と音楽の話で少しだけ盛り上がったという、嬉し良きこともあった。しかし、LINEを交換したのち、話をしているうちに宗教勧誘の可能性が急激に濃厚になって、また悲しくなった。



搖れない車輌内にて


​甲之助「先日ね、僕は何時もの様に最寄りの驛へと向ったんですよ、そしたらね、僕はトンデモない美女に出會ってしまったのですよ……それはそれは正に天地が飜ってしまうような美女でありましてね、僕はね、閉月羞花なんていう馬鹿みたいに仰々しい言葉を一生使うものかと思っていたんですけどね、もうそう言わざるを得ないような――私はその美貌に思わず目を逸してしまいました――彼女はまさにその權化であり生き寫しのようでしたよ……ええ、しかもなんと彼女はまだ女校生なんですよ!君はセイラァ服がもたらす美の魔力は知っていますか?そうです、どんなに器量の惡い女でもたちまちにして一回りも二周りも可愛らしくしてしまう、或いはその様な錯覺をいとも容易く生み出してしまう眩暈の裝置です――そのような恐ろしい禁斷の衣を纏ってしまった彼女は、その素の極めて美しい妖冶な姿態と相まって、國家さえ搖るぎかねない凛とした美しさを持っていたのです……まさに傾國の美女の現代版ですよ……しかも彼女はその美貌を鼻に掛けることはない――何故なら、それは彼女自身が體現しているからです。彼女は透明そのものでしたから――まるで私がいかにも穢らわしい存在であるかのように――僕は彼女を見た瞬間に絶望しました。このような鄙びた界隈にこのような美女が居るという絶望、私がどれほど頑張ってみたところで彼女をものに出来ないという絶望、そして――そうです、彼女の存在そのものに對する絶望です。今述べた絶望の総てがこれに收斂されるでしょう……私の存在など彼女の美しさに比べてしまえば、塵(ごみ)屑にも取るに足らない存在であることを痛切に思い知らされます。
彼女は、私らが一生向き合って行かなければならないあらゆる構成要素を、その端正な顏貌によって否定し、いささか掛かったその歪曲した主観的なヴェールを削ぎ落としてしまうような殘酷な存在でした。それだけではないのです。私の未來に起こる肯定的な出來事のすべては、彼女によって絶望しうることが可能になってしまったのです。これは由々しき出來事ではないでしょうか……私は恐ろしいですよ。こんな繰り言をつらつらと垂らしている今にも彼女は襲ってくるのです。アァ、私はもう考えることを止めたいです。一生考えることなく生きていけたら、どんなに樂なことでしょうか……」

乙太郎「ワハハ、傾國はおろか閉月羞花の權化だって?君も目出度い人間でありますなァ。一度この目で見てみたいものですよ。ところで、殘念なことに人間は思惟の一切を永遠に止められるほど器用で馬鹿な生き物ではないのですよホゲホゲ……」

Nojikas – 解体 Disintegrations



1 附室
2 京都鬱景 
3 沈潜と浮錨 
4 地下室の青春 
5 とうとうたらり 
6 間歇するモスキート [EADGBE capo=1]
7 疫苗
8 解体 
9 レコードプレーヤー 
10 しんくうのなか – telephone RMX

曲名に日本語を含む場合、楽曲をダウンロードする際に、ファイルの損失や文字化けが生じる可能性があるため、曲名は日本語名に英語名の表記を加えた形にしました。

 アートワークはもともと情報量多めのグロッキーなものであったが(前半の2曲のイメージや色調などがドンピシャで重なる感じであった)、最後の最後できわめてシンプルな幾何学的なデザインのものに変更した。インパクトには大きく欠けるが、万人受けという点では大きく勝っているだろう。また、このような幾何学的デザインはいわゆる数学系な音楽に対して好んで用いられるような一種のステレオタイプ的なデザインであることから、ある非常に限られた人々にとっては確信的な要素として捉えられかねないのだが、いざ蓋を開けてみれば、そのような数学的要素はほとんど皆無に等しいようなパワー系ギターポップであることにいささかの裏切りを与えられるのではないかというささやかなな狙いもなくはない。とはいえ、そもそもダウンロードされるという見込みはほとほと皆無であるから、アルバムの価格設定は無料にした。冒頭の通り曲名には英語名を加えておいたから、ともすればこののようなへんてこな一隅に迷い込んでしまいかねない世界中の音楽に乾いた耳ざとい人々のためにも、バリアフリーに接してもらえることだろう。とはいえ、英訳は合っているかわからないので不安ではある。また、bandcampのアルバムのタグ付けもかなり意識高いバンドふうになってしまった。


“マスロックのデジタル的アプローチ”というのがnojikasの最初の指標および一つ目のEPのコンセプトのようなものであったが、このような数学的な音楽と向きあえばむきあうほど、そして作れば作るほどマスロックというものがきわめて難解な所業であると痛切に感じ始め、そもそも難解なリズム音楽をつくり出せるほどの技量とリズム的感覚を持ち合わせていないのではないかという疑いさえ持ちはじめたあげく、Nojikasはその存在の余白を得るために『実験的ロック音楽プロジェクト』などと自称し、その結果、“マスロックのデジタル的アプローチ”という当初の目的は、いつのまにか“未知のコード感とリズム”というような指標にまで変態していたのである。それもそのはずであり、アルバムを通して拍子はほとんど4/4、たまに5/4がはいるだけの変拍子とはまるで言い難いものであるから、密やかにマスロックのタグ付けしていることに後ろめたさを感ぜざるを得ない。まだまだ改善点もいくばくか見られる。次回作はもっとちゃんとしたのを作ろうと思う。

前作

https://kyohshitsunoichigoo.wordpress.com/2016/03/29/nojikas-buried-alpha%E2%80%8B-%E2%80%8Becho-system-underneath-in-your-mind/

ユニクロカスタマイズでオリジナルデザインのTシャツを発注した

 あまりにも制服があった生活が長く続いてしまったせいか、夏ものの抽斗のなかはほとんどいつ買ったのかもわからないような柄物ばかりで、加えて外で着るにはあまりにも寒々しいバンドもののTシャツにすっかり占領されてしまっていた。実用的な服は中学時代からほとんど増えることなく、外出時はワンパターンの格好が定着し、「おまえの服ハンパなくデジャヴしか感じない」と言われそうになる有様であった。

 大学の構内で服装を観察してみると、半袖Tシャツは白系統が多く、とりわけ無地が半分ほどであった。ある1グループはみな白Tシャツに黒スキニーというありさまであった。なるべく服が被らないためには、やはり無地は避けたく、しかし某アパレル店ではTシャツはほとんど無地しかなく、他のアパレル店のなんとかという近頃勃興してきた某有名キャラクターをデザインしたようなTシャツのブランドも一周回ってダサく思え、そのため、ユニクロカスタマイズで自らでデザインしたTシャツを作成することにした。

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このデザインは、着るだけで人工的なポケストップに変身することができるほか、間欠泉の突然の湧出の注意をうながすことのできる非常に便利なTシャツである。また、温泉のフェスなどに着て行くことによって、かなり玄人な雰囲気を醸し出すことができるだろう。
しかし、あくまで下地はユニクロのTシャツなので、別に突出した感じはない。“普通に着れるような”デザインと思って作成していたが、もはやこの時点でマイノリティもなにもあったものではなかった。皆とかぶりたくなければ、別に奇っ怪なTシャツを着て行けばいいのだし、究極的には全裸で登校すればよいのだと思った。
服装は、あるいは服装だけはみんなとかぶりたくないという拘泥は、やはり凡人的な考えだなあ、と何となく感じた。とはいえ積極的に他人に同調し没個性的な服装に身を投じるということもいささか理解できずにいる。

音楽のない街 月録 : 2016-07


●変哲のない街路
火星に住む宇宙人のジェームズからメールが届いていた。水素分子の超振動による超長距離拡声ミドルC波を地球上のこのスポット向かってに直接照射するらしい。かなりタイムラグが生じるため、このメールを送信する数日前にすでにC音は発射しているから、もしその付近でミドルC音が聞こえたら連絡をくれ、という内容であった。私は半信半疑で耳を澄ましてみるが、そもそもミドルC音というのがどのような音か判らないし、その音が人間の可聴周波数帯域に合っているのかもわからないものだったから、「たぶん心の耳で聞けば聴こえる気がするよ、ちょっと人間の耳にはスパイスが効きすぎだけどね」という風に曖昧な返事をして適当にあしらった。もっとも、その音がすぐ傍にまで来ていたとしても、蝉の鳴き声に掻かれて、きこえはしなかったのだ。夏はただひどくうるさい――

●(宇宙から見た人間が見る)天井
そのどこを見渡してもただ青く広がった天井の、そのむこう側の涯なき真空のなかで、惑星たちによる大きな音楽が奏でられているかもしれない。それはちっともおかしな話しではない気がした。
 もう一つ目の学期が終了したのか、真昼から帰途を埋める小学生の列をぼんやりと横目で見ながら、いささか焦燥の色合いを拭えない頭のなかで、「いよいよ夏がはじまるのだナア、今年はなにしようかナア」などととりとめもない雑念に耽っていると、急になんとなく寂しくなって、――どうして夏というやつはこんなにも鬱陶しいのに、なぜだが感傷的な気持ちににさせてしまうのだ――青天井に思い切り息を吐いてやると、ふと視界の端に制服の少女がいたことに気づいて、それこそ小学生のような挙動だな、と少し恥ずかしくなって、所在なさげに自転車を漕ぎはじめる。
どうしようもない、とりとめもない感情が幾重にも連なって、やがて行き着く先はただ一つ、虚無である。――そんな時、ふと風の便りにまかせて君に会いに行きたくなる。 あるいは「運命」なんて便利なものでぼんやりしてみたくもなる。それはレットイットビーを唄うビートルズの皮肉のようなものではなくて、ドックオブベイのような一種の清々しさを孕んだどうしようもない諦観のようなものだ。それはかつてオーティスレディングが見ただろうなんでもない海の青さと、ちょうどそんな感じのある夏の日のようなものである。

●変哲な帰路
(未来に起こりうる全ての出来事が「運命」として決められているのならば、人間が歩む道のりは標識や岐路のない――つまり選択肢など存在しない――平らかな道であるのだろうか。自らの行動や選択はすべて運命が決定してくれるのだから、我々はあらゆる問題に難儀になることはない。けれども、もしその便利な運命に身を任せたその先が、思わぬ災禍や取りかえしのつかない結末であったとしてしまったら、それでもいっさいは運命というかたちに集束され、美化されてしまうのだろうか。運命という言葉が持つ利便性をいま一度疑うべきだ。あらゆる困難や悲劇――そして彼らが最期に仰いだ空の色さえも、まるごと綺麗さっぱりに美しく変えてしまうような、そんな馬鹿げた言葉なんて…………。)