新歓飲み―下半身に血流を滾らせし猿たちの饗宴

 そのとき、俺の頭は全速で回転した。しかし、頭蓋のなかは空っぽになったボウルのように、雑駁とした語句や思案の様々はつとに消え失せていて、いやらしい虚無がぽつねんと鎮座しているだけであった。
 たとえば、会話において自らと相手となるものあいだに、自分とは大きくかけ離れている要素が存在する、換言すれば、性別や年齢といった隔たり存在している、それらの要素が大きければ大きいほど、比例して緊張や警戒は解けるだろうか。どうやっても完全な共感や理解をしえぬというその大前提こそが、諦観というひとつの安心感を生みだすことになるのだろうか。しかし、その隔たりの存在をハンディとみなすことによって自らの能力不足を転嫁しているのではないのか?
 人と人との会話において沈黙の間隙こそが最も嗜むべきものだとしたら、どんなに素晴らしいことだろう。沈黙は悪か、雄弁なのは言葉か。
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