Nojikas – 解体 Disintegrations



1 附室
2 京都鬱景 [DADEBC]
3 沈潜と浮錨 [DADGBE]or[EADGBE]or
4 地下室の青春 [DADFCE]
5 とうとうたらり [EADABE]
6 間歇するモスキート [EADGBE capo=1]
7 疫苗
8 解体 [EGDGC#E]
9 レコードプレーヤー [DA#D#EBD#]
10 しんくうのなか – telephone RMX

曲名に日本語を含む場合、楽曲をダウンロードする際に、ファイルの損失や文字化けが生じる可能性があるため、曲名は日本語名に英語名の表記を加えた形にしました。


これさえあれば、もうデパスは要らないね――
 アートワークはもともと情報量多めのグロッキーなものであったが(前半の2曲のイメージや色調などがドンピシャで重なる感じであった)、最後の最後できわめてシンプルな幾何学的なデザインのものに変更した(そして戻した)。インパクトには大きく欠けるが、万人受けという点では大きく勝っているだろう。また、このような幾何学的デザインはいわゆる数学系な音楽に対して好んで用いられるような一種のステレオタイプ的なデザインであることから、ある非常に限られた人々にとっては確信的な要素として捉えられかねないのだが、いざ蓋を開けてみれば、そのような数学的要素はほとんど皆無に等しいようなパワー系ギターポップであることにいささかの裏切りを与えられるのではないかというささやかなな狙いがあってのことである。とはいえ、そもそもダウンロードされるという見込みはほとほと皆無であるから、アルバムの価格設定は0¥から購入できる投げ銭にしておいたのでだれでもダウンロードできるはずだ。同じ学生の身分として、とりわけ派遣バイトすら億劫になってブルジョワウェイへの呪詛を書き上げるようなニヒリズムを気取った貧乏苦学生や、引きこもりの三毛も、ワイヤードを徘徊する病的なネットデジタルジャンキーや、過去も未来もなにもかもがしょうもないと思いタラレバや結果論の環状をえんえんと周回する自己憐憫と他人へのどうしようもない劣等感と羨望を抱えた愛すべき少女も、「生まれた意味がなければ生きる意味も死ぬ意味もない」とうそぶきながら誰かに愛されることを望んでそのわりに一刻も早く死ぬことを夢見る他愛もないステレオタイプの妄想に侵されたアイツや、おっさんに抱かれたところでお金よりも承認欲求が満たされるような無尽蔵の心臓の空洞にとらわれたガールズ・オブ・セックスマシーンだって、結局のところ人間との間でしか存在価値は見いだすことができないと悟った顔をした自分だけは特別という信託に拘泥され続けるあのバイト先のナードも、夜あまりにも眠れずに手にした一冊の本を読む瞬間、ただその瞬間はじめて生きた心地がするような文学処女や、失われた時を求めてを読むマッカラーズ、その笑い話を思い出しながら読む君も、インゲボルクを待ち続けるトニオも、たとえば、行く場所もなくさまよい続ける平行世界の人たちであっても……。冒頭の通り曲名には英語名を加えておいたから、ともすればこののようなへんてこな一隅に迷い込んでしまいかねない世界中の音楽に乾いた耳ざとい人々のためにも、バリアフリーに接してもらえることだろう。


ド・マン曰く「批評家たちが自分自身の批評的前提にかんして最も盲目になる瞬間はまた、批評家たちが自らの最高の洞察を達成する瞬間でもある」ってさ――(笑)
『解体』とはなにか――それはつまり文字通り「脱構築」のことである。そしてここで述べている冠名の意味は正確には上記引用文にあるド・マンの『盲目と洞察』において語られるその脱構築を応用した批評――レクチュール(読むこと)のグロテスクともいえるほど「不完全」なシステムの在りかたから”不可避的な内的齟齬への盲目性によって「洞察」そのものが支えられていることを暴く”、というド・マンのいわゆる脱構築批評云々に触発されたものだ。透き通るブルーの色合いが鮮やかな装丁にひどく惹かれ手にしたこの透明感あふれる本著はしかし船を編むさながら文字やひいては文字を読むレクチュールの認識がゲシュタルト崩壊していきしまいには文字と逸脱と空白の海でタイタニック並みのドラマを展開するという読んでいて非常に腹立たしい本である。最初と最後(解説)だけ読んで理解すればいい●レカセブンみたいなANIMEだ。僕のように浅学の人は知らない固有名詞を不親切に列挙されても象形文字にしか見えないのだが、とはいえプルーストが俎上に上がった所はもはやよく覚えていないが面白かった。それよりプルーストは最高だ。失われた時を求めてはおもしろさが止まないもはや金太郎飴プログレである。一期のショタが生へと目覚めていく葛藤ともどかしさやドギマギとしたときめき要素に胸をうたれつつトイレでシコるシーンは感動の涙を禁じ得ない。訳は井上訳一択だ。原点にして頂点である。吉川訳は資料が豊富で一見する価値はあるが井上訳と比べるといかに井上訳が巧みかがわかる。ほかの訳はしらん。
ド・マンの脱構築批評において重要な概念一つにレクチュール(読むこと)の徹底的な内在性というのがある。読書、批評、読むこと、テキストを介して行われるこれらの行為は、たとえどのような認識が共有されているとしても結局は個人の内在的な解釈によって処理されるから、つまり純粋に同じ意味を、同じ解釈を得られることはないということである。そしてそれは「必然的な責務」であり、そして「レクチュールは本質的な誤読」である。言い方を変えれば、テクストを読むことは、つねに新しい意味を生成してくことである。つまり、「レクチュール(読むこと)は、同時にエクリチュール(書くこと)でもある」ということだ。そうすると、「批評家が最高の洞察を達成する瞬間はまたもっとも盲目になる瞬間である」というこれは、つまるところそのようなレクチュールの「盲目性に取り憑かれた」必然的な責務、誤読的なプロセスやら読み手との絶対的な相互依存的な関係やらに対して見えなくなるということである(忘れた)。
伝達の手段として言葉、テクストはその受容の絶対的な内在性ゆえにあまりにも不完全的なものであり、それはいささか伝達の手段としてみればいささかグロテスクですらある。”批評は文学テクストの本質的な意味を暴くメタ言語であるどころか一種の比喩形象でしかない”、そしてそれはあらかじめテクストに組み込まれた、言語の働きの一部分でもある(「解釈の意味論は、いかなる認識論的一貫性も有していない」、非科学的なものだ。)とはいえその齟齬は多彩な多様性を生みだしていることも事実だ。そして、文学――文学とは、まったくそのようなものであった……

「九月初旬の空の下、カフカはリーヴァの堤防の上に立っていた。」――
“マスロックのデジタル的アプローチ”というのがnojikasの最初の指標および一つ目のEPのコンセプトのようなものであったが、このような数学的な音楽と向きあえばむきあうほど、そして作れば作るほどマスロックというものがきわめて難解な所業であると痛切に感じ始め、そもそも難解なリズム音楽をつくり出せるほどの技量とリズム的感覚を持ち合わせていないのではないかという疑いさえ持ちはじめたあげく、Nojikasはその存在の余白を得るために『実験的ロック音楽プロジェクト』などと自称し、その結果、“マスロックのデジタル的アプローチ”という当初の目的は、いつのまにか“未知のコード感とリズム”というような指標にまで変態していたのである。それもそのはずであり、アルバムを通して拍子はほとんど4/4、たまに5/4がはいるだけの変拍子とはまるで言い難いものであるから、密やかにマスロックのタグ付けしていることに後ろめたさを感ぜざるを得ない。まだまだ改善点もいくばくか見られる。次回作はもっとちゃんとしたのを作ろうと思う。


元ネタ
1 附室…大学で発見した。なんやねん、このよく分からん奴は。トマソンか?収容案件か?という字面からの妄想。
2 京都鬱景 …『東京鬱景』が元ネタ。「鬱景」の読み方は勝手に決めた。
3 沈潜と浮錨…躁鬱の浮沈だ
4 地下室の青春…伊藤海彦『旋律と風景』より
5 とうとうたらり…響きがいいよね
6 間歇するモスキート…蚊との闘い
7 疫苗…造語。
8 解体…脱構築。
9 レコードプレーヤー…”レコードプレヤー。”『嘔吐』で一番好きなシーン。 
10 しんくうのなか – telephone RMX

前作

https://kyohshitsunoichigoo.wordpress.com/2016/03/29/nojikas-buried-alpha%E2%80%8B-%E2%80%8Becho-system-underneath-in-your-mind/

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