「たとえばアパルトの中の夜のような…」月録(-2017/01)雑々記

「(…)こうした本能を排除した場合であってねェ、人間はある人間にですよ、――それが直接的な関係を持たなくとも――自らのトポスを見出すことができるんですヨ……」と、テレパシー研究会のある先輩は言った。
私は去年の暮れ頃からなんとなくうだつの上がらぬ自暴自棄的な絶望感を覚え、“神通力を用いて不定愁訴を除去する”というなんとも胡散臭いチラシを学内で偶然に見つけ、このテレパシー研究会を訪れた。ところが、私がいくら神通力治療を懇願したところで、当の施術者は「今日は低血圧でチャクラ練れないんでまた後日お越しください」の一点張りで、代わりに連れてこられたテレパシーカウンセラーというただの衒学的なうるさ型先輩に仕方がなく相談していたのであった。
先の言葉は、至極当たり前なことであるが、全くその通りであった。いくら趣味的なものがあれど、それがすがれるほど強靭でなおかつ透徹した力を持っていなければただの自慰的な作業であり、一つでもそのような感覚を覚えてしまえばあらゆる拠り所は連関的に瓦解して行き、「おりゃどーすりゃいいんだ」と毎日ホゲホゲとしながら、人間というものは本質的に恋愛体質なんだなァと、薄い膜に覆われたような暗澹たる日常に唯一穿つことができる活路というのは、きっとただこれだけなんだよな、ということにたどりついたのであった。


●工事中の駅頭
暦の変化になにかと意味が附される年末年始というのは、なぜだか日々の生活やひいては漠然とした生というものに対して肯定的な感触を覚える。門松は冥土の旅の一里塚という成句があるが、これを積極的な意味で捉えるとすれば、先の得もいえぬ救済感と相まってなかなか良い言葉のようである。とはいえ、それは死があらかじめ決まられている場合に限るのであり、その生物的寿命を平らかに全うするということは、決して簡単なことではないのである。内外の影響がもたらす死はほとんど不定的なものであり、あるいは自らそれを選択することも可能なのである。生は本質的に不自由であるが一方でまた死というものは……。そのようなどん底ともいえる正月を迎え、つとに今年の運勢に憂えたがここをなんとか踏ん張ろうとお年玉を糧に気持ちを持ち直した。


●楽屋
たとえば本当に伝えたいことがあって、それに敷衍した詩的におもえる言葉を羅列したとて、その技術や感性がなければただサムいだけのポエムに終わってしまうのであり、言葉選びの難しさはその程度にあった。しかし、逆転してなんの装飾もないガツガツの心情吐露も好きである。
先日友人の大学サークルのバンドに助っ人として出演した。もうコピーバンドはやりたくないなーと思って音楽系のサークルには入らなかったのだが、大学でのキャンパスライブや、こういったライブのその前後のなんでもない駄弁りを見ると、いささか気持ちが揺らぐが、それ以上にたとえコピーであってもそれすら上手くできないという事実に辟易した。同じ出演者であった唯一のオリジナルバンドは、時間が合わず見ることができなかったのだが、ネット上で曲を視聴すると、先般からいささか感じていた詩の用い方を改めて考えさせられる運びとなった。

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