the_end

●夢の選択
 小さい頃は早く大人になりたいなーと思っていたが、最近ではもう一度過去をやり直したいと思うあまりに、山篭りや断食、瞑想や擬死体験を試みるなど、タイムリープの能力を体得すべく日々身体の探究に腐心したり、時空超越マシンの開発の下準備ために第八チャクラ解放塾なるものに通い始めるありさまであった。というのは、まことに奇妙なことに、弦を弾いたり、鍵盤を叩いたり、ペンを滑らしたりするという行為が、自らの内奥にしまいこんだクソどうでもいいような有象無象の思い出メモリーを湧出させる引き金となっていたからである。思い出される出来事のはすべては恥辱や後悔を再び生起させるものばかりで、楽しいことは何ひとつ浮かんではくれず、しまいにはコンプレックスをそのまま詰め込んだ夢が展開される日々が続いた。とはいえ、それは夢であるからまだ良いのであった。それに併せて巻き送る現実の出来事というのは、まったく悪夢よりもつまらない。
 もう今年で二十歳になる。二十歳までに実現させたいとはかっていた様々な思案や計画は、およそほとんど潰えてしまった。残りのわずかな種も、その芽が出るまでには時間がかかるどころか、その存在さえ揺らぎかねない始末である。


●放課後の動態
 まるでドラマの筋書きのように、あたかもそうなるべく仕組まれた軌跡を辿っているような人間も存在する一方で、自分はそのようなお伽噺とはかすりもしない小径を匍匐しながら歩んできたように思える。むしろ誰かが自分を貶めるために、一切が巧妙にすれ違うような話を練り上げているのではないかとさえ感じる。
 それはすでに件の夢のなかに現れる放課後の動態によって明示されていた。放課後における行動の選択数は学校内の階層関係に比例しており、特に放課後の教室の独占は上位層の特権であり、彼らは過剰なフィクションの幻想を自分たちで演ずべく、放課後になればなんというなし集まっては、教室の外壁に甘酸っぱい開かずの不文律を張り巡らせるのだった。
 しかし、いくら俺にその権利がないとはいえ、その見るなの座敷に足を踏み入れなければならないときがあった。それは教室の一隅にエレキギターを置くという、すでに繰り広げられていた男女の青春沙汰よりももっとくだらない理由であった。俺は教室の扉を開けた――ドラマは一時停止した。窓からいかにもあつらえ向きな夕陽が差し込んでいた。俺はギターを置いた。とみに彼らの傍観者となった我がエレキギターは、やがてゲイリームーアさながらに泣きの音色を漂わせた。


●部室みたいな準備室
 そんな日でも創作行為を止めることができぬのは、やはりその行為自体に心の拠り所であると認められる瞬間が存在することや、またその発展として他者の承認における心的な満足や自らのトポスの発見を得られる可能性が少しでもあるからなのだ。とはいえ、その逆を言えば、そこに具体的な形で価値が付けられなければただの自慰であり徒労に過ぎず、そこに惜しみなく充てられる資金や時間はただの浪費に過ぎないだろう。しかしそれで満足であれば良いのである。それは勝手に自己完結されてしまうクリーンなものだからだ。そこに少しでも〈欲〉が生起してしまえば、それはとみに打算的な作業へと変化してしまう。その作業に賭とするものが多くなればなるほど、それは自分一人で昇華できるものではなくなる。むき出しの欲求を貼り付け、誰かを、どうしようもないほどに誰かを希求することになる。

●殯屋
 しかし、全くうまく行かないことに、放たれた分身が誰かのために機能することはそうあるものではないのだ。分けのわからん有象無象の魂や熱量、混沌とした気を込めて創られた分身が、誰かの餌となるわけでも、胸の隙間を埋める粘土となるわけでも、保湿クリームのように塗布されるわけでもなく、まるで肩の上のホコリのようにサッとふるい落とされることや、誰にも掴まれないまま日の目を見ることなく朽ちてゆく姿を見るのことは甚だ辛いことであった。解き放った言霊のそのほとんどが死霊となって今も宙をさまよっていることだろう。彼らが成仏する日はまだまだ遠い。
(チャイム)
さよなら

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